洗練。

エルメスやグッチのようなヨーロッパ メゾンのバッグや靴なども、まだ並行輸入の時代。
当時19歳のわたしは、六本木の輸入雑貨を扱う会社でアルバイトをしていた。
ある日銀座メルサにヴィトンのロールとボストンを納品に行く社有-ドイツ-車の中、交差点の反対側で信号待ちをしているちょっと目立ってカッコいい女の子を、運転席の社員の先輩が指差し、
「レノマのバッグを左腕で挟んで、髪かきあげてさ」
日焼けした肌に、限りなく白に近いパールピンクのルージュがよく似合う。ハイウエストで膝から下が大胆なフレアの、これまた限りなく白に脱色されたブルージーンズ履いている。
「モデルさんですかね」というわたしの返事を無視して、
「あの子もあと5年くらいしたらさ、ミラショーンのバッグ持って、バルマンのブラウスとか着るんだよ」
スモーキーグレーの絹地に淡いブルーやピンクの花々が繊細に描かれたグッチの細いネクタイをした彼の、
「結局行き着くところは、エレガンスなんだよな」
が、なぜかショッキングに響いて、今でも耳に残っている。

その頃の記憶は殆ど曖昧なのに、この短いやりとりやヴィジュアルだけは鮮明に蘇る。あの時の先輩が、どのくらい意味を持って言っていたかは計り知れないけれど、お洒落な人がより洗練されると「エレガンスに行至る」理由をずっと考えていた気がする。

エレガンス = 優雅、気品、典雅、品格。

歳を経るにつれ、ただの、白人仕様のエレガンスはつまらないと感じるようになってきた。
本物のエレガンスとは、究極の他者への思いやりなのだろうが、世界共通、民族を超えた優雅とは、誰の目にも美しく、はっとさせられる魅力のことではないか。
どんなに理解に苦しむセンスの言動をする人々の国であったとしても、公式行事とか民族の舞踊をライブで鑑賞すると圧倒されるように、その人の価値観が生んだ美、灼熱の太陽と環境が創り出した花の「複雑な形や色」の如く、プリミティブな完成度に戻っていく。
「プリミティブに完成する」と言っても野生に帰るのではなく、いちいち神聖な存在に気づき、いちいち大事に想い、いちいち感謝して、そして自身の資質をいちいち磨くことで、

洗練とは、プリミティブな個性美を限界まで押し伸ばすことではないだろうか。「それぞれの楽しみ」で「他者に違う価値観を楽しませる」プレゼンテーションに違いないと。